子育てコラム

我が子ハルナとシュントの記録から。



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食べた物はどこへいく?!



 
 ある日の食事の時間。当時5歳だった息子のシュントが「食べた物はね,お腹に入るんだよ。」 と言うので,「ふ~ん,お腹に入った後,どこにいくの? 」と聞いてみました。すると,シュントがおもしろいことを言い始めました。
「お腹に入ってから,食べた物は,上がってくるんだよ(両手で上がってくる様子の身ぶり)。だから,ときどきゲボ(嘔吐のこと)とか出ちゃうんだよ(困ったような表情で)。」

 シュントはつい数週前,体調を崩し嘔吐したのですが,それを思い出したのでしょう。困った表情が真に迫っています。そして,シュントの説明は続きます。
「ゲボが出ないときはね,上に上がって,(食べ物は)頭に入るんだよ。お野菜とかが,頭に入って,中から上に押すんだよ(頭のあたりで,両手で押し上げる身ぶり)。お野菜とか,がんばって押すから,背が伸びるんだよ。」

 えっ?!と驚いた後,こみ上げてくる笑いを堪えながら,私が「そうだったんだぁ~ 」と言うと,シュントは,
「そうだよ!! だ・か・ら,お野菜とか食べたら,大きくなるんだよ!」
と言い放ちました。なんと得意気な表情でしょう。

 さて,このような子どもの考えは,どこから来るのでしょう。幼い子どもたちは,自分で見たもの,触ったもの,動かして試したもの…このような自分の身体の体験を通して学びます。上の例でいうと,シュントは確かに,大人から「食べた物はお腹に入るんだよ」や「たくさん食べると,大きくなるよ」と教えられていました。しかし,このような一方的な情報だけで,子どもが納得し理解するわけではありません。ほんの数年前まで,「食べた物がお腹に入る」と言われても,きょとんとして「なくなっちゃう」と言っていたシュントです。しかし,徐々に,満腹時のお腹の感覚を自覚できるようになり,その感覚を通して理解できるようになったのでしょう。また,食べた物がお腹から頭に上がって,中から押すから大きくなるのだという,シュント独自の説も,嘔吐のときの身体感覚がきっかけになっているのでしょう。野菜を持ち出したのは,植物の水やりで植物が伸びていくのを見た経験と結びついているのかもしれません。

 このような体験を通した学びは,そのときどきの子どもの理解や考えを支えるだけでなく,後には,学校での座学を中心とした学びにも影響します。ブランコの揺れる感覚は,もしかすると,物理学か何かの理解につながるかもしれないのです。子どもの幼い理屈ですが,子どもたちは,自分の頭を使って考える練習をしているのですね。







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け ん か


 息子のシュントが5歳のときです。夕食を食べながら、仲良しのたっちゃんの話になり、そこから時々けんかもするという話になりました。私がおもしろ半分に、「けんかしたら、どっちが勝つの?どっちが負けるの?」とシュントに聞くと、「負けるのはたっちゃん!」と、えらそうに答えます。本当は五分五分といったところなのですが、まあそこはあえて言わず、「どうして負けってわかるの?」と聞いてみると、シュントは「泣くから」と自信満々に答えます。そこで私はもうひとつ質問。「じゃあ、ごめんなさいって言わなきゃいけないのは勝った方?負けた方?」と聞くと、「勝った方! だって、えらいからだよ!そんなことで泣かないからだよ!」と、たたみかけるように答えます。相手を泣かしてしまうことはいけないことだから、謝るのだということを、本当はシュントもわかっているのでしょう。たたみかけるように答えたのは、それをごまかすためだったように思います。内心、子どもっぽい発言にくふっと笑いそうになりながらも、親として「そうじゃないでしょう」と言い聞かせ、仲良くするように話をしました。

 さて。お友だちと仲良く過ごしてくれるに超したことはないのですが、一方子どもたちは、けんかやもめごとからも多くのことを学びます。このようなお友だちとのネガティブなやりとり全般を≪いざこざ≫といいます。乳幼児期のいざこざの原因は、物をめぐる争いや、明らかな攻撃や妨害、偶発的な身体接触などさまざまですが、年長になってくると、遊びのイメージの不一致やルール違反もいざこざの原因となります。たとえば、ごっこ遊び中、どの役の子がどのような発言をするかでイメージがずれて言い争いになったり、かくれんぼの鬼がこっそり目を開けていたと抗議したりといったことなどです。そんなことでもめなくてもいいのにと、大人は思いますが、子どもたちがいざこざを起こしてまでイメージやルールを共有しようとするのは、お友だちと共に遊びたいという強い思いがあるからです。ですから、年長の子どもほど生じてしまったいざこざを一生懸命解決しようともします。自分の意図や気持ちを主張したり、感情をコントロールしたり、相手の意図や気持ちを考えたり、社会の約束事やルールに自分を当てはめたりして、精一杯試行錯誤しながら、自分たちでいざこざを収め、また一緒に遊ぼうとします。

 上のシュントの発言からも、相手が泣いたらもうそれ以上はやめよう(相手の気持ちを考える)、謝るときはちゃんと謝らなくてはいけない(社会のルールに自分を当てはめる)という、いざこざの収束のしかたを理解しているようにも思えます。だから、何度けんかをしても、またすぐたっちゃんと遊び始めるのでしょう。


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「死んじゃうとどうなるの?」
 娘のハルナが4歳のとき,曾祖母が大往生を遂げて他界しました。ハルナはまだ幼すぎて,「曾(ひい)ばあちゃんは,お空に行ってお星様になるのよ」と言われてもよくわからないという表情。それでも,なんとか理解できたのが「会えなくなる」ということ。周りの雰囲気もあって,「行かないでほしい」と泣き出しました。その半年後でした。今度は,私や夫が親しくしていた先輩が不慮の事故で亡くなりました。ハルナ自身はほとんど知らない人でしたが,夫と私が話をする様子から重さが伝わるのか,いつもなら会話に割って入るハルナが,そのときはおとなしくしていました。とはいえ,ハルナも気になるでしょうから,何があったのか話をしました。そして,「早く死んじゃうとダメなんだよ」と言うと,きょとんとして「早いといいんでしょ?」ですって。娘が,「早く早く!」ばかり言われている普通の年中さんだったことを思い出し,その無邪気さに少し笑え,ほっとしたことを覚えています。でも,「これは,遅いのが一番なんだよ」と,何度もしつこく言わずにはいられませんでした。早くに亡くなった人がそれを望んでいたわけではありませんから,ハルナの成長に合わせて,もっと丁寧に話をしたいと思います。

 さて,この2つの死別体験で,おそらくハルナの頭の中は疑問符だらけになったことでしょう。「死んじゃうとどうなるの?」とか「どうしてお空に行っちゃったの?」とか,「お父さんとお母さんは死マない(死なない)?」と何度も聞いてきました。祖父母に,覚えたてのひらがなで「おじいちゃん しまないでね(死なないでね)。 おばあちゃんも しまないでね。」とお手紙を書き,「ハルナね,おじいちゃんとおばあちゃん,死マないでほしいから,(この手紙に)心を入れたの!」と言っていました。
 幼児が死を理解することはとても難しいことです。死の概念には,身体の機能が停止して動かなくなること(死の不動性),死から戻らないこと(死の不可逆性),みんないつかは死ぬこと(死の普遍性)という3つの側面があります。ハルナは動かない曾祖母を見て死の不動性を感じ,会えなくなることで死の不可逆性を,そして,「お父さんとお母さんは死マない?」という質問で死の普遍性を捉え始めていたのでしょう。死別体験の有無や深刻さによって異なりますが,おおよそ6歳頃までにこれらのことが理解できるようになるといわれています。小動物を含めた死の理解は,生を大事にすることにつながり,保育所や幼稚園などでも丁寧に取り組まれています。死を題材とした絵本(『わすれられないおくりもの』や『おじいちゃんがおばけになったわけ』など)が吟味されて保育実践で用いられることもあります。

 もちろん,大人になっても,死を完全に理解することなんてできないのですけどね。



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「うそ!ほんとー?!」ってどんな意味?


 息子のシュント(当時4歳11ヶ月)が保育園から帰ってきて,こんなことを言い出しました。「『うそ!ほんとー?!』っていうのは,“うそ”ってことじゃないんだよね?」と納得がいかないような,それでいて少し心配そうな表情です。唐突すぎて何のことかわからず,聞き直してみると,「シュントが,『うそ!ほんとー?!』って言ったら,マナトくんが『うそじゃないよ!』って言うんだよ」と説明してくれました。つまり,マナトくんが何か言ったことに対して,シャントが『うそ!ほんとー?!』と言ったのでしょう。どうもマナトくんはうそを指摘されたと受け取ってしまったようで,シュントはそういうつもりではなかったと言いたいようです。『うそ!ほんとー?!』という部分だけ,大げさな抑揚と表現を付けて私に話してくれる様子から,なんとかこのことばの意味を伝えたいというシュントの思いが感じらました。私が,「じゃあ,『うそ!ほんとー?!』ってどういう意味?」と聞いてみると,「“知らなかった”ってことだよ」ですって。ああ,なるほど,確かにそういう文脈で使うこともあります。

 私たちは誰かと話をするとき,字義通りの意味だけをやりとりしているのではなく,その状況に応じたその場限りの意味もやりとりしています。たとえば,「暑いですね」ということばは,街角で出くわした人に言われると,あいさつとして「そうですね」と返せばいいかもしれません。しかし,家に遊びに来た人に言われると,「もう少し涼しくしてほしい」という相手の依頼として受け止め,「では,窓を開けましょう」と窓を開けるために立ち上がるかもしれません。このように,ことばが字義通りの意味だけでなく,あいさつや依頼といった何かの機能を担うことを<発話行為>といいます。発話行為は,その状況に応じた話し手の意図と聞き手の解釈で成り立つものなので,マナトくんとシュントのように年中児同士であれば,少し難しかったのかもしれません。しかし,家族同士の慣れたやりとりばかりでなく,保育園で,いろいろな友だちといろいろな状況でやりとりする経験を積むことで,徐々に状況に応じたその場限りの意味をつかめるようになるのでしょう。

 そういえば,ちょうどこの頃です。私は何か悪いことをしたシュントを叱るとき,「何回言ったらわかるの?」と聞くのですが,それに対してシュントが「3回だったかな…。(私がさらにムッとするのを見て)あ,5回くらいだった?」と返してきたことがありました。私としては,「ごめんなさい」を促しているつもりでも,字義通りに受け止めるシュントには通じなかったのでしょう。






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甘えん坊のおかぁ~さん♪

 娘のハルナ(当時3歳11ヶ月)と一緒に,ソファでテレビを観ているときでした。私は,ソファに寝そべってもっと楽な姿勢でテレビを観たくなり,隣に座っているハルナを押しのけようと,ハルナにもたれかかりました。ハルナはムッとして「お母さん,なんでハルナにのっかるの?!」と即抗議。私は,あまり深い考えもなく「お母さん,甘えん坊なの」と答えてみました。すると,イヤそうな顔が一変し,嬉しそうに私に膝枕を申し出てくれくれました。そして,私の頭をなでたり,肩をタンタンしたり,あげくに「甘えん坊の~おか~ぁさん…」と即興の歌を得意げに歌い始め,夫にまで「お母さん,甘えん坊なんだって~」と報告です。でも少しすると,ハルナの小さな膝には私の頭が重そうです。私が身体をずらして,ハルナの膝から頭をはずそうとするのですが,ハルナは「お母さん,甘えん坊なんでしょ」と,また私の頭の下に自分の膝を入れ,膝枕に逆戻りです。私にしたらちょっとしつこいなと感じ始めていたのですが,いつもは甘えるばかりのハルナなので,たまには甘えられる役もやってみたかったのでしょう。もう少し膝を借りることにしました。

 さて今回は,「甘えられる役」といったときの<役>の話です。<役>というとその場だけの一時的なものが浮かびますが,発達心理学では<役割>という用語で研究されています。ふり遊びやごっこ遊びで他者の役を演じることを通して,自分と他者の違いを理解し,他者から自分がどのように振る舞うことが期待されているか,つまり自分が担うべき役割(一時的であれ長期的であれ)というものを理解するようになるのです。また,お母さん役がいるから赤ちゃん役が成り立つというような役割の相互依存性や,お母さんの役は交代してもいいのだという役割の交代可能性なども学んでいきます。ハルナの表情が一変したのは,甘える役と甘えられる役が入れ替わってもいいことや,甘える役は甘えられる役を担う人がいることで成り立つということに気がついたせいかもしれません。

 また,他者の役割を一時的に自分の身体を使って演じてみることは,自分の未来を描くときにも役に立ちます。パパの靴を履いてみたり,ママの口紅をいたずらしてみたりするのは,あこがれの気持ちをもって自分と親を重ね合わせ,自分がどのような人(どのような役割を担う人)になっていくのか想像しているのかもしれないですね。子どもが自分で自分の発達の場を準備する行為といえるでしょう。実はこのころ,私のお腹には赤ちゃんがいて,ハルナはお姉ちゃんになる直前でした。ハルナ自身が,甘えられる役を担っていく可能性を感じはじめていたのかもしれません。





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 ボクのお金

 小学生の姉が自分のお小遣いで親や友だちにプレゼントを買うのを見て,自分でも自分のお小遣いを使ってみたいシュント(5歳)。そのころ,まだ決まったお小遣いをあげていませんでしたが,おばあちゃんからもらった小銭がいくらか貯金箱に入っていました。ちょうど6月でしたので,父の日のプレゼントを買ったら?と提案したら大喜び。さっそくお店を歩き回って,「お仕事が忙しくてもできるだけ一緒にお風呂に入ってね」という気持ちを込めて,入浴剤を選びました。習い事の帰りに寄ったので,「家に帰ったら,お母さんにお金を返してね」と約束して,その場では私が立て替えて払いました。

 これが大失敗。お金を返してもらおうと,シュントの貯金箱を出すと,「シュントのお金だから,あげない!!」と言い出すのです。私が「さっき,お母さんのお金で払ったでしょう?」 と言うと,「ちがう!払ったのはシュント!」と貯金箱を奪い返します。確かに,レジで私が預けたお金を払ったのはシュントでした。私が「あれは,お母さんのお金。まだ返してもらってないよ」 と説明するのですが,今度は「ちゃんと返した!! おつりは,お母さんのお財布に入れた!!」です。「シュントのお金じゃないと,シュントからのプレゼントにならないの。だからお金,返してね」「だ・か・ら,シュントが払った!!」「あれは,シュントのお金じゃなくて,お母さんのお金!!」「払ったのはシュント!」…らちが明きません。

 大人にとっては当たり前の<お金>ですが,子どもには理解しがたいものです。1歳半頃から徐々に,物は誰かの物,つまり,自分のおもちゃやパパの靴といった<所有概念>が発達します。1歳代だとおもちゃを取られても,意外と平気でけんかに発展しませんよね。それは,所有概念が発達途上のため,取られたという意識も強くないからです。もちろん5歳ともなれば所有概念はずいぶん発達しますが,難しいのは,お金に所有概念を当てはめ<誰の物か>を考えることでしょう。お金には物品や労働と交換可能という価値はあっても,その実態は見えにくいものです。紙のお金を1枚払って小銭いくつかでおつりをもらうと,子どもは「増えた!」と言ったりします。幼児期には,実態のないものは<誰かの物>とも思えないのでしょう。

  シュントですが,どうしてもわかってくれません。はじめから,シュントの貯金箱を持たせるべきだった,シュントのお金で買い直すしかないか…と私もあきらめ,「じゃあ,シュントのお金でもう1回,プレゼントを買いに行こう」と提案すると,せっかく選んだプレゼントが自分からのプレゼントでなくなると察したシュント。しぶしぶ「じゃあ,お金,あげるよっ!!」と払ってくれました。父の日当日には,夫にプレゼントを渡しながら,「シュントがお金払ったのに,お母さんにお金取られたんだよ」と告げ口していましたけどね。

 


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同じかたち・異なるサイズ

 朝,シュント(当時2歳2ヶ月)を起こして,「お着替えするよぉ~」と声をかけると,のそのそと私の前に突っ立って,着替えさせてと言わんばかり。私が着替えを手伝いやすいように,シュントの背の高さに合わせて膝立ちで低くなると,あれれ?シュントまで,膝をついてしゃがんでしまいました。これでは私の方がまた高くなってしまうので,私はそのままおしりを下ろして正座になりました。ところが,またまたシュントも正座をしてしまいます。これじゃあ,着替えさせられません。「シュントは立ってて!」と言って,やっと着替えをすることができました。この時期,似たようなことがどきどき起こりました。私が,悪いことをしたシュントを叱ろうとしたときです。私が,シュントの前に立ち,目の高さを合わせるためにしゃがむと,シュントまでしゃがんでしまったのです。これじゃあ目の高さが合わなくなってしまう…。叱るはずがつい吹き出してしまいました。シュントは決して,ふざけようとしたのではないのです。ただ,目の前に来たお母さんがしゃがんだので,つい自分も同じ姿勢を取ってしまったのです。

 子どもは<模倣(まねっこ)>が大好きです。大好きというだけでなく,模倣を通して多くのことを学べるので,発達においても重要なはたらきをします。

 さて,この模倣について,おもしろいことをいった発達心理学者がいます。模倣が成立する前提として,模倣される人と模倣する人の<同型性>があるというのです。つまり,まねされる人とまねする人は,腕や足,顔などのかたちが基本的に同じになっていて,そのおかげで子どもは模倣ができるというのです。たとえば,子どもがゾウのまねっこ遊びをしますが,これは実際のゾウをまねているのではなく,ゾウの身振りをするおとなをまねているのです。本来であれば,長い鼻を持たない子どもがゾウのまねをするのはどれだけ難しいことでしょう。「バー」と言えば「バー」が返ってくるし,ほほえめばほほえみが返ってくるように,同型性は模倣を支え,さらに,乳幼児期のコミュニケーションをも支えています(たとえば,赤ちゃんをくすぐるとき,同じかたちなので,赤ちゃんの身体のどのあたりをくすぐればいいか,直感的にわかりますよね)。

 その一方,おとなと子どもはサイズが異なります。そのため,私が背の高さを合わせるために違うかたちを取ろうとしても,シュントの方は同じかたちになろうとしてズレが生じたのです。同じかたちゆえ,コミュニケーションが可能になるのですが,異なるサイズゆえ,そのコミュニケーションにズレが生じて,そのズレを調整するためのさらなるコミュニケーションが必要になるのですね。

 


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はんぶんこだったらいいけど…

  ある日の夕食。その日は特別に,サラダにエビのトッピングをしたのですが,シュント(当時4歳半)が気に入って,パクパクパク。他のおかずには見向きもせず,サラダの上のエビだけを狙います。一方,4歳年上の姉のハルナは,のんびり自分のおかずから食べています。そして,シュントが最後のひとつに手を伸ばしたとき,「あ。私,ひとつも食べてない…」とハルナが言い出しました。私も,シュントがそんな勢いよく食べていたとは気づかず,あわてて「シュント,お姉ちゃん食べてないって。それ,お姉ちゃんにあげて」と頼みました。文句を言うかと思ったら,にっこり笑ったシュント。「うん,いいよ。はんぶんこね。」

 ああ,そうじゃなくて…。「お姉ちゃん,ひとつも食べてなくて,シュントはたくさん食べたでしょう? だから,それ,1個全部あげて」と,私はもう一度説得を試みました。シュントの表情が急に曇り,「1個はやだ…。はんぶんこ…。」と言い出します。そして,う~んと考えはじめ,あれこれ言いながら悩んで,悩んで…。そして,とうとう最後には,1個丸ごと,お姉ちゃんにあげることができました。おお~,えらい,えらいっ!

 ちょっと話はそれますが,ベテランの保育士さんなどは子どもの年齢によってことばかけを変えることがあります。2歳児には「お友だちのことは叩かないんだよ。お口で言ってごらん」や「貸してって言われたら,どうぞって貸してあげようね」と言うところを,4歳児に対しては「叩くとお友だちが痛いでしょう?」「そんな風に言ったら,お友だちはどう思うかな?」と言ったりします。低年齢児には単純なルールを提示し,高年齢児には他者の心の推察を促すと伝わりやすいのでしょう。

  4歳というのは,発達心理学的には<心の理論>の仕上げの時期なのです。<心の理論>とは,自分と他者の心の中を混同せず,自分が知っていることと他者が知っているだろうことを切り離して理解できるようになるということで,他者の心についての理論を構築できることから,心の理論といわれています。「あげて」に対して,はじめは「はんぶんこ」というルールに自動的に従うという反応をしたシュントでした。しかし,<心の理論>仕上げ期へ移行中のシュントは,お姉ちゃんの状況を一生懸命思い描き,最後にはあげるという決心ができたのでしょう。でも,本当は最後のエビを食べたかったよね。また今度,作ってあげるね,と思ったのでした。



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小笠原のパパたち
 東京から約1,000キロ離れたところに,小笠原諸島があります。片道25時間半の航路のみ。30くらいの島々のうち,人が住んでいるのは父島と母島だけで,あわせて2,500人くらいです。自然豊かで独自の進化を遂げた固有種も多く,2011年6月に世界自然遺産に登録され話題になったのは記憶に新しいのではないでしょうか。

 人の暮らしについても他の島とは少し事情が異なります。第二次世界大戦で全島民が強制疎開となったので,多くが,転勤や小笠原を気に入って移り住んできた新しい住民です。一方,離島なので,保育施設や医療機関など子育て資源は十分ではありません。しかし,子育て資源の不足を補うかのように,コミュニティでは,子育ての助け合いが恒常化していました。また,この島では,小さな地域に職場も自宅もあるので通勤時間がかからず,昼休みに昼食をとりにいったん帰宅するという習慣もあって,父親が子育てに密に関わっている家庭が多いのも特徴です。
 私たちは,この島で子育てについて,調査したことがあります。島の自然環境が子育てにプラスに働いていること,人間関係の濃さについてよい面と悪い面があることなどは,ほぼ予想していたとおりでした。しかし,子育てのサポートについてはちょっと違いました。母親に対して,「困ったときの相談相手になる」「離乳食やトイレットトレーニングなどについて話す」など,いくつかの子育て場面について,誰からサポートが得られるかを尋ねた項目があり,私たちは,小笠原では,父親からのサポートが大きいだろうと予想していたのです。ところが,東京都内のある市(本州内)での類似した調査では,5割以上の割合で父親がサポート提供者と認識されていたにもかかわらず,小笠原では,3割弱だったのです(これらの調査は分析の仕方が異なるのでおおざっぱな比較です)。小笠原の母親たちにこれについて直接聞いてみてわかったのですが,父親も,母親と同じように子育てに関わっているので,わざわざ相談しない,相談しなくても,今,何が子どもの問題かについて,父親も知っているし,その葛藤に巻き込まれていると言うのです。母親から見ると,子育ての相談相手というより,子育ての同志だったのです。限られた保育資源,父親自身が周囲から「早く帰って子どもの相手しなきゃ」と言われる機会の多い密な人的環境,そして,子どもと楽しめる豊かな自然環境など島特有のコミュニティのありかたが,良くも悪くも父親を子育てに巻き込んでいるようです。

 相談やサポートという役割は,裏を返せば,その課題を主体的に担っているというより,横から担い手を支えるものです。もちろん,相談相手やサポート役も重要ですが,小笠原のパパたちは,もう一歩踏み込み,子育てに主体的に向き合っていたのでした。




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ぼくはぼく,わたしはわたし

   私は仕事のつごうで2年ほど,アメリカ・マサチューセッツ州にいました。今回はアメリカの幼稚園(保育所との区別はありません)について書いてみようと思います。
日本とアメリカの保育の違いでよくあげられるのが,日本での「一斉保育」と,アメリカでの「コーナー保育」です。一斉保育というのは,今は絵を描く時間,今は自由遊びの時間というように,クラス全体で基本的に同じ活動をします。コーナー保育の場合には,部屋をいくつかに仕切って,絵を描くコーナー,ままごとのコーナーというように,コーナーごとに活動が分けられているのです。もちろん,日本でもアメリカでもいろいろな保育形態がありますので,一概にはいえませんが…。

  私がアメリカで見学した園も「コーナー保育」で,広い室内に,本を音読するコーナー,蝶の幼虫を観察するコーナー,単語のスペルを覚えるコーナー,レゴのコーナーなどがあり,子どもたちが順に回って,いろいろな活動に参加していました。このようなスタイルだと,人気のあるコーナーにばかり子どもが集まったり,子どもが自分の気に入ったコーナーに居座り続けたりしそうですが,子どもたちがいろいろなコーナーを回れるような工夫がされていました。たとえば,各コーナーに「定員」があって,「レゴは3人まで。今3人遊んでるから,後にしよう」と別の空いているコーナーに行ったり,お友だちに「そろそろボクと代わってくれる?」と交渉して入れ替わったり,また,スタンプラリーのようなカードがあって,子どもは自分のカードを確認しながら回ったりしていました。このような活動が前提となっているせいでしょうか。アメリカの園の保育者は,子どもが5人同じ場所に集まっただけで,「子どもが集まりすぎるのはよくない。自分で自分の好きな活動を選べていないせいだ。」と言っていました。日本であれば,好きなお友だちと遊ぶために,自分のやりたいことを後回しにするということはよくあることですし,私たちおとなも,それをごく自然に受け入れます。

 日本の場合,自分のペースで自分の活動に専念することより,他の子と協力するという協調性が先に教えられる(「貸して」「どうぞ」のやりとりなど)ように感じますが,アメリカでは,自分の活動を自分でコントロールする自主性の方が優先されているように感じました。子ども同士が喧嘩になりそうな場面でも,日本の場合,子ども同士で解決できるよう促されますが,私が見学したアメリカの園では,おとなが即やめさせ,人の活動をじゃましないことが教えられていました。どちらのやりかたがいいかではなく,いろいろな子育てや考え方があるのだなと感じたのです。ボクはボク,わたしはわたし…。それもいいか。


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「やだ!」もいろいろ

 2歳半ごろのシュントは,まさに反抗期まっただなかでした。興奮してうまく寝付けない夜。眠れないことに退屈してくるのか,布団からわざと足を出しては,添い寝をしている私に「あーしっ!」と言ってきます。布団をかけ直すように要求しているのです。はいはい,とかけ直すと,またすぐ足を布団から出して,「あーしっ!」 その生意気な言い方ったら! 何度か繰り返されると,私もイライラしてしまい,「ネンネしないと,もう(寝室から出て)行っちゃうからね」とちょっとこわい声で言ってしまいました。すると,今度はしくしくと泣き始めます。枕に顔を押し当てて泣いているうちに,興奮がさらに増して,泣きやめなくなってしまったようです。しゃくり上げるシュントを抱き寄せて,背中をタンタン,タンタン…。そうしているうちに,徐々に泣きが収まり,やっと眠ってくれました。

 自分の感情をうまくコントロールするのが難しい時期なのだろう,と思っていると,翌日はまた違った「やだ!」が出てきます。「ごはんよー」と呼ぶと,なかば反射的に「やだーっ!」と答え,知らん顔で遊び続けています。しかし,私も素知らぬ顔で,「お手々,洗ってきてー」と続けて言うと,やはり反射的に「やだーっ」と言いつつも,あっさりおもちゃから手を離し,手を洗いに行きます。このようなシュントを見ていると,本人が本当にイヤと思っているかどうかは半々という感じがします。返事の代わりに「やだー」と言ってみて,むしろ大人の反応を試しているようにもみえました。

 反抗期とは,2~3歳がピークで,自己主張の気持ちと反抗したい気持ちが織り合わさって生じるといわれていますが,私としてはそれ以外の反抗のしかたもあるような気がしています。たとえば,”プチ反抗期”と言われるような2歳前ごろの反抗のしかたは,返事の代わりに,あるいは,単純に「やだ」ということばを覚えたから,「やだ」と言ってみて,大人の反応を見ているうちに,だんだん収拾がつかなくなってごね始めることが多いように感じます。少なくともスタート時点では,なにかにこだわって主張しているようにみえないのです。4歳ごろは,子どもなりのこだわりがいきすぎてしまい,自分が信じること(家庭内でのルールなど)を律儀に全うしたいという気持ちが強くなり,そのことから親に注意をしたり,反抗したりしているようにみえることもあります。

 反抗のしかたがいろいろということは,親が子どもの反抗に振り回され,手こずるのも当然です。親にとっては大変な時期ですが,この時期が過ぎてしまうと,反抗期の思い出は親としての勲章のように懐かしい思い出となります。私も,大きくなった子どもに「あのころは…」という話を聞かせては,「親に感謝してよね~」と恩をきせています。言われた子どもたちは,相変わらずムスッとしてますけどね。



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いいお姉ちゃんになりたいのに…
 娘のハルナは4歳のお誕生日がくる1週間前,お姉ちゃんになりました。妊娠中から何度も私のおなかに小さな手をあて,胎動を一緒に感じていましたから,弟シュントの誕生はハルナにとってもうれしいことでした。年齢が少し離れていたせいか,ハルナは,せっせと赤ちゃんのお世話をやいて,まるで”小さなお母さん”のようでした。赤ちゃんが泣くと,まっさきに飛んでいきましたし,赤ちゃんにおもちゃを見せたり,お話を聞かせたりしていました。”お姉ちゃんになった自分”に誇りをもっているようでした。
 
 おむつ替えのとき,新しい替えのおむつを引き出しから取り出してくるのは,ハルナの大好きなお手伝いでした。おむつ替えそのものは難しくても,おむつを取ってくるだけで十分,赤ちゃんのお世話をしているつもり。いつも,遊びを投げ出してでもおむつを取りに行ってくれるくらい,このお手伝いに責任を感じていました。ところが,1ヶ月くらい経ったこのときは,少し違いました。私が,「おむつ,取ってきて」と言うと,「やだ~」と言って,部屋を出て行ってしまったハルナ。私があまり気にもとめず,自分でおむつを取って,さっさと替えてしまうと,あとから,部屋に戻ってきたハルナ。もじもじしながら,「おむつ,取りたい…」と言い出したのです。そして,私がすでに替えてしまったことを知ると,わっと泣き出しました。「ハルナ,やだって言ったけど,本当は(おむつを)取りに行きたかったの~!」と言いながら,涙が止まりません。
 家に赤ちゃんがやってくるというのは,家族の誰にとっても大きな変化です。とくに上の子にとっては,それまで,父親・母親の愛情と関心を独占していた家族内での揺るぎない地位が,ある日突然,新しくやってきた赤ちゃんに奪われてしまうのです。いくら赤ちゃんをかわいいと思っていたとしても,この変化を受け入れがたく感じることがあるかもしれません。このようなとき,赤ちゃんがえりのように,赤ちゃんと張り合うことで自分のもとの地位を取り戻そうとすることもあれば,お母さんのように振る舞うことで,赤ちゃんに対して優位に立とうとすることもあります。このときのハルナも,”お姉ちゃんになった自分”と,もともとの”お世話される自分”の間で,心がひどく揺れたのでしょう。このような心の揺れを経験しながら,赤ちゃんのまねでも,お母さんのまねでもない,お姉ちゃんとしての自分専用の居場所を見つけるのです。きょうだい(あるいは,異年齢の子ども)とのかかわりは,その子の社会性の発達を促すとも言われています。自分-きょうだい-親という新しい人間関係のなかで試行錯誤することが,もっと大きな社会に出たときの練習になっているのかもしれませんね。


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「あ~ん」

 その日は,おじいちゃんとおばあちゃんが我が家に泊まりがけで遊びに来ていました。夕方,息子のシュント(当時1歳6ヶ月)が空腹で騒ぎ出したものの,私は別のことで手が離せません。そこで,いちばんヒマそうにしていたおじいちゃんに頼んで,シュントに食事を食べさせてもらいました。テーブルラックにシュントを座らせ,その正面におじいちゃんも座ります。そして,器に入ったごはんをスプーンによそって,熱いのをふうふうと冷ましてから,「あ~ん」とシュントの口の方へ差し出します。そのときのおじいちゃんの顔といったら!!

 まるで,シュントと同じくらいの小さい子が大好きなごはんに思いっきり大きな口を開けて飛びつこうとしているかのように,「あ~ん」と口を開いています。おじいちゃん(つまり,私の父なのですが)は,その世代の多くの男性同様,自分の子どもの子育てにはほとんど関わったことがありません。ですので,小さい子の扱いに慣れているわけではないのです。そんなおじいちゃんですら,多くのママたちがごく自然に行っているように,「あ~ん」と言いながら,自分の口まで「あ~ん」と開けているのです。

  そして,おじいちゃんの「あ~ん」に呼応するように,シュントの口が「あ~ん」と大きく開きます。シュントの口にスプーンが入っていくと,おじいちゃんとシュントの口が,タイミングを合わせるかのように,「ん」と固く閉じて,おじいちゃんはスプーンを引き戻します。シュントはもぐもぐと口を動かします。

 このように,私たちには(子どもに多くみられますが大人でも),他者の身体で起こっている(起こるべき・起こるだろう)ことを自分の身体で起こっているように感じることがあります。これを間身体性といいます。つまり,おじいちゃんは,シュントがおいしく食べることを思い描き,そのときのシュントの口の動きを自分の口に感じているのです。シュントの方は,おじいちゃんの口元を見つめるうちに,おじいちゃんの口の動きを自分の口で起こっていることのように感じてくるのです。
 さらに,この食事場面では,それぞれの間身体性をベースとして,相互に継続したやりとりが成り立っています。つまり,相手の口の動きを間身体的に感じる,というだけで終わるのではなく,そうやって感じた自分の身体が次の動きを創り出し,それが相手の次の動きを誘っているわけなのです。子どもたちは,このような間身体的なやりとりをたっぷりと経験することで,対人関係を築く力や共感性といったものを発達させていくことでしょう。

 そして,この話を書きながら私は(もしかしたら,読まれている方のなかにもいるかもしれませんが),このときの光景を思い出し何回となく,私自身の口を開けてしまっているのでした。

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夜中の授乳にため息…

 赤ちゃんは,1日に何度も泣いておっぱいを要求します。それは,夜中でも同じで,一晩に何度も起こされることがあります。シュント(生後2ヶ月ごろ)は,寝る前にたっぷりおっぱいを飲んでも,夜中に1回か2回は泣きます。この時期,私は母乳で育てていたので,夫もたいていの育児にはかかわっていましたが,授乳だけは代わることができませんでした。ある夜,いつものように寝ていると,シュントの泣き声が聞こえ始めます。私は半分眠ったままで,「ああ~,またか…。起きるのちょっとつらいな…。シュント,泣き止んでまた眠ってくれないかな…」などと考えます。しかし,シュントの泣き声は大きくなるばかり。私は,疲れ切った身体にむち打って,身体を起こしました。もう何週間もこんなふうに起こされ,ゆっくり眠れない日が続いています。いつまでこの状態が続くのだろうと思うと,「はぁ…」と大きなため息がもれました。と,そのときです。隣でぐっすり眠りこけていた夫が,がばっと起き上がり,しかし寝ぼけたような声で,「な,なにか,手伝おうか…?」と聞くのです。シュントの大きな泣き声ではまったく目覚めなかった夫が,私のため息で慌てて起きたのです。夫にとっては,私の機嫌が悪くなることが怖かったのでしょう。そのくらい,私はイライラしやすくなっていたのかもしれません。私が「大丈夫だから」と言うと,安心したのか2秒くらいでまた眠った夫でした。

 さて,子育てとは,楽しいばかりではありません(とはいえ,楽しい部分も大きいのですが)。夜中に起きて授乳をしたり,なかなか泣き止まない赤ちゃんをいつまでもだっこしなくてはいけなかったり,身体的にも大きな負担になります。それだけでなく,思い通りにいかない育児にイライラしたり,母親失格だと感じたりなど心理的に追い詰められることもあります。このような子育てで生じる不安を育児不安といいます。このような育児不安など,ない方がいいと思われがちですが,多かれ少なかれほとんどの親が感じるものであり,そのこと自体が子育て不適応というわけではありません。ときどき落ち込んだり悩んだりしつつ,子育てを楽しむことができるような折り合いを探ることになります。また,子どもにイヤだなと感じることにも,子育てを振り返り,子育てを微調整していくという意味があるのです(菅野,2001)

 夜中の授乳は大変ですが,おっぱいを飲んでまた眠りについた子どもの顔は,本当に愛おしいものです。大変な思いをした後だから,よけいそのように感じるのかもしれません。




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ニカッと笑って,ばっしゃーん!

 そろそろお風呂の準備ができたころ。私は,シュント(当時1歳7ヶ月)に「さあ,お風呂に入ろう!」と声をかけながら,お湯を確認しにいきました。お湯はちょうどいい温度。そこで,ちょっとの時間だからと,お風呂場の戸も湯船のふたもあけたままで,シュントの着替えを取りに行きました。一方,お風呂が大好きなシュントはさっと遊びをやめて,脱衣所に向かいます。そして,そのままお風呂場に入り込み,湯船の前に立ちます。私が,着替えを持って戻ったそのとき,シュントは,小さい子ども用の洗面器で,湯船のお湯をくんで,ばっしゃーん!!

 洋服を着たまま,お湯を浴びたではありませんか。私が,びっくりして,「あ~!!
シュントー!!」と叫ぶと,一瞬手を止めてこちらを振り向きます。ところが,ニカッと笑ったかと思った次の瞬間,もう一杯,ばっしゃーん!と浴びたのです。一杯目は,いつものお風呂のつもりだったのでしょうけど,二杯目は,明らかにするべきではないとわかっていて,“わざと”やったのです。洋服ごとびしゃびしゃになったシュントは,私の慌てようが楽しいらしく,満足そうな顔です。

 このように,子どもは,してはいけないとわかっていることを,“わざと”することがあります。親にとっては面倒なことですが,そこには<他者の意図理解>という大切な発達があります。

 生後9ヶ月を過ぎると,親が「ほ~ら,ブーブー(車のおもちゃ)だよ~」と子どもにおもちゃを見せると,子どもは,おもちゃと親を交互に見比べるということができるようになります。そして,見比べながら「ママは,ボクにこのブーブーを持たせようとしているのかな」というように,親の意図に気づきはじめます。そして,1歳を過ぎると徐々に,親の意図を理解したうえで,それを自分の意図と照らし合わせ,必要であれば,親の意図の方を変えさせようとします。つまり,シュントが“わざと”お湯をかぶって見せたように,親が子どもに何かをさせたい(または,やめさせたい)という意図を理解したうえで,それをあえて拒否するのです。ちょうどこのころから2歳くらいまでの時期,子どもは他者をからかったり,だましたりすることもはじめます。もちろん,幼く他愛のないものですが,こういったことも,他者の意図理解が前提になっていて,たとえば,他者を思いやることと発達的には近いものといえるのです。

 私としては,何よりまず,湯船のふたを開けたまま,その場を離れてしまったことを反省しなくてはいけません。シュントはまだ小さいから勝手にお風呂場に入らないだろうと油断していました。今回は,お湯を浴びただけなので,笑ってすみましたが,湯船に落ちたら大変。気をつけなくてはと思ったのでした。







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